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泉岳寺

(せんがくじ)

泉岳寺は、東京都港区高輪二丁目に位置する曹洞宗の寺院で、青松寺・総泉寺とともに曹洞宗の江戸三箇寺の一つとして数えられています。この寺院は、江戸時代の歴史的な出来事である「赤穂事件」と深い関わりがあり、浅野長矩と赤穂義士たちの墓があることで知られています。

寺院の歴史

創建と再建の歴史

泉岳寺は、慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田の地に門庵宗関を招いて創建しました。しかし、寛永18年(1641年)に起こった寛永の大火で焼失してしまいました。これを受け、徳川家光の命により、長府毛利・笠間浅野・鹿沼朽木・丹羽・水谷の5大名によって現在の高輪の地で再建されました。再建当時の泉岳寺は、現在の約三倍の寺領を有し、壮大な学寮も九棟ありました。

赤穂事件と泉岳寺

元禄14年(1701年)に松の廊下での刃傷事件が起こり、浅野長矩が切腹を命じられ、その遺体は泉岳寺に葬られました。そして、元禄16年(1703年)には、赤穂義士が吉良邸に討ち入り、義士たちの遺骸も泉岳寺に葬られることとなりました。寺内には、浅野長矩の正室瑤泉院や実弟浅野長広、大石家の墓所もあります。

義士たちの遺品とその行方

義士たちの討ち入り後、当時の住職であった酬山は、浅野長矩の脇差(村正)や義士たちの所持品を売却し、その収益を得たことで世間の批判を浴びました。その後、酬山はこれらの品々を買い戻す努力をしましたが、多くの遺品が散逸してしまいました。しかし、21世紀に入ってから、いくつかの刀剣が発見されるなど、義士たちの遺品が再び日の目を見る機会もありました。

義士墓の保存と寺の変遷

泉岳寺の義士墓は、時代が経つにつれ、その保存状態が問題視されることがありました。徳川吉宗の時代には、墓地は荒れ果て、「墓地には草が生い茂り、墓が並んでいるのも見えない」という記録も残っています。江戸三座での歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』の上演を機に、多くの人々が訪れるようになり、寺は参拝者からの寄付を募るようになりました。

近代以降の泉岳寺

明治以降の変遷

明治元年(1868年)には、明治天皇が泉岳寺に勅使を派遣し、赤穂義士たちの忠節を称えました。その後も、泉岳寺は赤穂事件にまつわる史跡として、多くの参拝者を迎えることとなりました。1881年には、来日中のイギリス女王ヴィクトリアの王孫が泉岳寺を訪れ、赤穂四十七士の墓を詣でました。

関東大震災と第二次世界大戦

1923年の関東大震災では、泉岳寺の建物や墓が倒壊し、1945年の東京大空襲では本堂が焼失しました。しかし、1953年に本堂は再建され、寺の機能は再び回復しました。

現在の泉岳寺

1989年には、「宿なし興道」として知られる澤木興道の銅像が本堂前に建立され、2001年には赤穂義士記念館が新たに開館しました。また、2020年には、浅野長矩と瑶泉院の墓の修復が完了し、今も多くの参拝者が訪れる場所として親しまれています。

境内の見どころ

学寮

泉岳寺の境内には学寮があり、吉祥寺の旃檀林学寮、青松寺の獅子窟学寮と統合して現在の駒澤大学へと発展しました。現在でも、僧侶たちはこの学寮で共同生活を送りながら大学に通学しています。

重要文化財と建造物

泉岳寺には、多くの文化財や歴史的な建造物があります。特に、浅野長矩墓および赤穂義士墓は国の史跡に指定されており、赤穂義士記念館や義士木像館など、義士に関連する展示物も数多くあります。また、1832年に再建された山門や1836年に完成した中門など、江戸時代の建築様式を今に伝える建造物も見どころの一つです。

義士祭

毎年12月14日には、「義士祭」が開催され、全国から多くの参拝者が訪れます。この祭りでは、赤穂義士たちの忠節を称え、彼らの功績を後世に伝えるためのさまざまな行事が行われます。

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